浄化

心の浄化は魂に思考が入って来るのを許さないようにするという意味である。
-- エルサレムのヘシキウス『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
顕教と密教に通暁する真の秘訣とは、生命の道を修むることに他ならず。呪文を学習することでメリットがたくさんある。邪悪な欲望から保護してくれて、自分を純粋にする。その功を成し遂げれば仏や仙人となる。
-- 西遊記

手水鉢(京都、龍安寺)

浄化の儀式は世界中の宗教に存在するが、日本と同じくらいそれらを真剣に行って、日常生活の一部としている文化はない。 高潔さは日本の人々に深く根付いていて、それは神道の中心となる純潔の概念の影響の結果である。日本人の高潔さは 「神聖なるプレゼンス」が現われるための純粋なる内面の戦いの象徴である。水は人々を悪と不運から清める象徴として知られている。寺院や神社の水盆は参拝者が祈りを始める前に、口や手を清めるために使用される。これはイスラム教徒が毎日5回、祈りを開始する前に手や足を洗うことと同じことである。

命の水を飲むと不死に達する。
-- ルーミー(13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人)
星の如く冷たい水で自分自身を浄化しなさい。 -- エジプトのピラミッドテキスト

神道の星の神である須佐之男命(すさのおのみこと)は、海の水に対する権限を与えられた神である。星々は水と同様に、「内なる神」を目覚めさせる喚起の象徴である。

花瓶から水を注ぐ観音菩薩
初更に起きなさい、主の顔の前の水のように自分の心から注ぎ出しなさい 。-- クレルヴォーのバーナード(12世紀フランスの修道院長)(12世紀フランスの修道院長)
心は五臓六腑の中心であり、君主の役割を果たす。 それは神(精神の働き)が生じてくる器である。
-- 『黄帝内経』 素問第八「霊蘭秘典論篇」 (中国医学の古典)

外面的には、水は汚れやほこりを取り除く。 内面的には、心から水を注ぎ出すということの意味は、汚れやほこりという「一万の<私>」を取り除くために、誠実な願望で「現在に存在する」喚起を注ぐことである。 夜(睡眠の状態の象徴)の初更(しょこう、現在の午後7時または8時頃から2時間)は自己想起の最初の喚起を象徴する。夜には五更あり、「現在に存在する」喚起が五つある。 この後、「プレゼンス」の状態が長く継続することを象徴する夜明けが訪れる。

五更は、ほぼ夜明けだった。 -- 西遊記
私は心の聖なる水に入浴する。
-- グル・ナナック(16世紀の最初のシーク教の教祖)

水で身を浄めるすべての儀式は「高次の自己」が「現在に存在する」ことができるように、自分を俗事に関係する「複数の<私>」から精神的に清潔にすることを象徴している。

秘密の中の秘密は、開始から終了まで省略することはできない。これは、心臓と洗浄し、思考を浄化し、つまり入浴することである。『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)

生命には水が不可欠であり、意識的生命には「自己想起」の喚起が不可欠である。 下の画像では、人々が水で身を浄める「外的な意味」を行っている。

インドのガンジス川の入浴の儀式

禊(みそぎ)













日本では新しい建物を建築する前に、地鎮祭という儀式を行う習慣がある。 地鎮祭とは文字通り「神を鎮める」という意味である。
これは工事の安全を祈願する儀式で、
建築工事に先立って吉日に行う。

地鎮祭で使う、神籬(ひもろぎ)と呼ばれている臨時的な神社

神社の神籬(ひもろぎ)













当日は神籬(ひもろぎ)という小さな神社が設置されている。神籬というのは、建物が立つ予定の敷地の中心に4つの竹の棒により画定される、小さな正方形または立方体の3次元の神聖な空間である。4本の竹の棒の上部は、短冊で飾られた注連縄(しめなわ)で繋げられている。この空間は、土地を使う許可を求めるために、天から神を招いて地鎮祭を行う領域である。 神籬の正方形または立方体の神聖な空間は「内なる神」が目覚めている「プレゼンス」が長く継続する状態を象徴している。

都(天なるエルサレム)は正方形てあり、長さと幅と高さとは、いずれも同じである。
-- 聖書、ヨハネの黙示録 21章16話

都は同じ状態のもう一つの象徴である。

正方形の第三の目がある翡翠製のオルメカの面
紀元前900〜600年(メキシコ、ベラクルス州)


一尺方形の家は顔である。顔の中の一寸方形の場所、 それは天の心以外の何物であるか?一尺四方の中心には、光輝く者が宿っている。碧玉の都の紫の広間には、最も空虚で生命力のある神が宿っている。『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)

この都は「存在」の命令によって成立した。
-- ルーミー(13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人)


日常的な活動に没頭して自分が眠っているということに気が付いているとき、自分を現在の瞬間に呼び戻す。それから、自分自身と周辺に注意を払う努力を行なって、この注意を分割する努力を維持するならば、「内なる神」が目覚める。注連縄とは注意を接続する縄という意味であって、頭にぐるぐる回る思考や感情によって注意が引き離されることを許さず、現在の瞬間に注意を維持する努力の象徴である。この状態が深まると、自分の思考や感情をもはや自分のものとして経験しない。それらと自分の間には分離があり、自分は浄化され、「内なる神」に至る。

魂が浄化されていると、その中に自己のことは何もなくて、完全に神の存在に留まる。その存在は神にあり、神はこの浄化されている魂を自分へ導いた。燃えることができるものは何も残っておらず、もっと苦しむことはない。-- ジェノヴァのキャサリン(15世紀のイタリア聖人とミスティック
私は、魂への愛情のこもった神の降下と、神に浄化された心の恍惚なる上昇を、私が集めることのできる最も適切な言葉で表現してみます。-- クレルヴォーのバーナード(12世紀フランスの修道院長)

神籬

この状態はすべての秘教的(エソテリック)な伝統に正方形または立方体として象徴される。古代には儀式は屋外で行われた。その際、神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保った。古くはその場所を神籬と呼んだ。次第に神社が建てられるようになり、祭りも社殿で行われるようになったが、古い形の神社は、建物の中に玉垣を設けて常盤木(常緑樹、つまり榊など)を立てて神の宿る所とし、祭るものであった。後にはこの常盤木を神籬(ひもろぎ)と呼ぶようになった。「ひもろぎ」(古代には「ひもろき」)の語源は「ひ」は神霊、「もろ」は天下るの意の「あもる」の転、「き」は木の意とされ、「神霊が天下る木、神の依り代となる木」の意味とされた。 この木は「現在に存在したい」という願望を持っている心を象徴する「生命の木」である。

望みが得られない状態が長引くと、心が病気になる。 願望があるときは、命の木を得たようだ。-- 聖書、箴言13章12話


能舞台

命の木にあずかる特権を与えられ、また門を通って都に入れるように、彼の戒めを行う者たちは、幸いである。
-- 聖書、ヨハネの黙示録 22章14話

神籬は、同じく正方形であり背面の木製の壁に生命の木が描かれている能舞台と同様のことを象徴している。



心を浄化する一つの意味は自分の困難を外の世界(または自分自身)のせいにする多くの態度から浄化することである。これらの小児期に身に付いた態度は、「自分の存在」「低次の自己」の一部であり、自分と周りの世界をどんなふうに見るかを決める。「低次の自己」はこれらの態度を放棄したくない。なぜならばそれは自分自身の一部を放棄することを意味するからである。尊敬されていない、または不当な扱いを受けていると感じると、人は動揺する。これは自尊心が外の世界で認められることを必要とする結果である。私たちは自分に対する空想的なイメージを信じ続けたいために、自尊心が外の世界で認められない時、外の世界に対して動揺する。 出来事自体は5分か10分だったかもしれないが、次の数時間または数日の間にその出来事を頭の中で再生することによって、「現在に存在する」ことが妨げられる。このような思考や感情は自分の睡眠の状態を維持する。「現在に存在する」とは、この「複数の<私>」に耳を傾けないようにして現在の瞬間に注意を集中することを意味する。私たちの人生は決して摩擦から解放されることはない。 いつかは誰かと問題が起こる。なぜならば、人々はみな異なっていて、ほとんどの時間お互いを本当には理解できないからである。我々はまた、自分自身を知らなくて、自分に対する空想的なイメージをそのまま維持できないことを懸念している。

1995年の兵庫県南部地震

竜巻

睡眠の状態に生きている人間に、摩擦を取り除くことはできない。数万人を殺す戦争や自然災害も常に地球上の生命の一部である。

地球は痛みの工場である。
-- グルジェフ20世紀第四の道の神秘思想家)
何が苦しみの高貴な真実であるか?誕生は苦悩で、年を取ることは苦悩で、悲しみと嘆き、痛み、絶望は苦悩である。-- 仏陀

目覚めの観点から見ると、摩擦は、個人的な規模または大規模のいずれにしろ、避けられないし実際に必要である。人は困難を避けることではなく、それを受け入れることにより、「神聖なるプレゼンス」に達する。困難を受け入れる努力は、意識の高次の状態が発生することの代償である。毎日の生活の観点から見ると、多くのことは不公平に見えるかもしれない。ただしそれらを受け入れて、自分の中で叫んでいる思考や感情に耳を傾けるかわりに「現在に存在」すれば、人は、これらすべての「複数の<私>」が太陽の下の雪が溶けるような状態に到達できる。そのとき人は、実際の問題点は「複数の<私>」を刺激した出来事ではなく「複数の<私>」そのものであることを理解し、この困難を経験したことに対して感謝する。

不幸であるときに幸福であること。それは完璧である
-- ファリドゥディン・アター(12世紀スーフィーの詩人)

これが唯一の真の正義である。 摩擦の変容という支払い、つまり「複数の<私>」からの自分の浄化を通して、人は「内なる神」に目覚め、「神聖なるプレゼンス」の一部である本当の幸せ、愛と内なる平和を経験することができる。 この状態を経験すると、地球の平和の「外的な意味」は幻覚であると理解する。全員が目覚めるのでなければ、地球の平和はあり得ない。けれど、それは決して起こらない。なぜならば目覚めたい人は常に少ないからである。そして、これらの少数の人々の内に「プレゼンス」に到達するための代償を払いたいと思い、自分に対する空想的なイメージをあきらめられる人はもっと少ない。 人生のすべての摩擦は、そこから蓮の花が生える泥であって、それは蓮の花が成長するために必要な栄養が含まれている。「プレゼンス」の状態に到達すると、すべての摩擦にもかかわらず、地球上の生命はそのままでよいと理解する。 なぜならばそのおかげで「神聖なるプレゼンス」の状態に達することができるからである。

最も重要なことは、心を純粋で清潔に保つことである。 心が汚染されていると、どんなに儀式があっても、それは十分ではない。 -- ヒンドゥー教のテキスト
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「第四の道と秘教的な伝統」⎟ 「西遊記」⎟ 「神聖なるプレゼンスの技術」


英語: The Secret of the Golden Flower ⎟ The Taoist I Ching ⎟ Being Present First


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