座禅

座禅しているお坊さん

座禅は禅仏教の重要な禅学である。坐禅の目的は単に座って、すべての批判的思考を中断し、言葉、概念、感情や考えに巻き込まれることなく、それらを通過させることである。

私はこの肉体ではなく、この知性ではなく、これらの感情でもない。私は単に観察するだけである。私は永遠の目撃者である。-- 禅師

坐禅の目的は、「高次の自己」が目覚めていて、「低次の自己」を客観的に観察する「プレゼンス」 の状態に到達することである。


イシスの頭の上に座っているツタンカーメン
(カイロ、エジプト博物館)
何も考えないことは禅である。これを知っていると、歩いたり、立ったり、座ったり、横になったりする、それらすべてが禅である。
-- 達磨(禅宗の開祖)
良き友人よ、座禅とはどういう意味であるか?心と思考が、外界の、良いまたは悪い対象や状況によって突き動かされていない場合、それは座っていると呼ばれる。 自分の内的な本質の不変性を見る、
これは瞑想と呼ばれている。-- 慧能(7世紀の中国禅宗の六祖)
根本的なことに瞑想する人々は、普通の任務や活動を瞑想中に行って、瞑想は任務や活動をしながら行う。瞑想と活動の差異がない。
これがまだできない人、その道に自分の意図を集中する力が弱い人のために特別な瞑想の期間が設定された。
-- 夢窓疎石(14世紀の日本の詩人、ガーデンデザイナー)
常に瞑想で座って、無心になることができると思うか?これは心を無心ではなくて、狭くする。 全体的な意識は流動的で順応性があり、
あらゆる場所や時間に存在する。これは真実の瞑想である。道は単純明快であり、世界を回避しない。
-- 老子(紀元前6世紀の道教哲学者)化胡経、52話
いつでもどこでも瞑想できないと、無心な瞑想は単に妄想でしかない。-- ミラレパ(11世紀のチベットヨギ)
維摩が私の方に来て言った「ああ、シャーリプトラ、このように座っていることを真実の瞑想で座っていると思うべきではない。すべてを完全に停止させた三昧という状態でありながら、自分自身の日常生活を行う——これが黙想で座っているということである。 あらゆる視点の中で不動でありながら、三十七の悟りの手足を習練すること、これが黙想で座っているということである」。 -- 維摩経 (仏教のテキスト)
「座っている」とは「物理的に眼を閉じて座っている」という意味ではない。 この後者は、うわべだけである。 本当に座っているとは、自分が何をやっているにも関わらず、すべての行動と安息の最中にも、心が安定された山のようである必要がある。 -- 王重陽(12世紀、道教の老師)
古代人は、「人々が妨害の真っ只中にある場合、これは独立を保つための努力をするには良い時である」と述べた。現在の瞬間に包括的に注意を払いなさい。その中に突然、静かな座禅よりも何百万回優れた悟りの経験が開くだろう。-- 黄元吉 『樂育堂語錄』

座禅は「高次の自己」が目覚めていて、内的な玉座に座っている「神聖なるプレゼンス」の状態の象徴である。

頭の上に玉座があるイシス
(パリ、ルーヴル美術館 )
内的な心は玉座のようなものである。それは精神が座ることができる唯一の場所である。-- ルズビハン・バクリ(12世紀のスーフィー神秘的な詩人)

座っているとは努力をしてきた後に、「プレゼンス」 の状態で休んでいて、慧能の言った通りに遠離している状態を指す。瞑想は、「低次の自己」が日常の用事をなすことを観察する「高次の自己」を目覚めさせることを意味する。

思考から自由になるというのは、思考の真っ只中にあって思考を持っていないことを意味する。-- 慧能(7世紀の中国禅宗の六祖)

エジプトの女神イシスの名前の意味は文字通りだと「腰掛け」であり、イシスを表わす象形文字も玉座である。ファラオは彼女が提供する玉座に座っていた彼女の子供として描かれていた為に、彼女は玉座の化身として、ファラオの力の重要な象徴だった。

恵みの御座は心にある。-- 僧・カリスタス『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

イシスは「神聖なるプレゼンス」の状態に達成した心の象徴である。ファラオは心から生まれて来て、「支配する能力」、「執事」またはこの状態に到達するために必要な「精神的な努力な身体」の象徴である。心は「プレゼンス」を達成する願望、「精神的な身体」はその道具で構成されている。

私の心はその子宮の中にイエスがいる美しいマリアである。
-- ルーミー(13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人)
アラーは六日間で天と地を創造し、それから御座に就いた。-- コラーン、7章54 話

湛慶による六観音菩薩、1224年(京都、大報恩寺、千本釈迦堂)
最初に立ち上がらない者は最後に座れない。-- アル・ダカック(11 世紀、スーフィーのマスター)

人間が毎日過ごしている「心理学的な 睡眠の状態」というのは夜横たわることを象徴している。立ち上がることは「現在に存在する努力」の開始を象徴し、座ることは悟りまたは「プレゼンス」が長く継続する状態を示す。

心の中に座っている愛らしい者は、生命の呼吸を支配する。-- ウパニシャッド(ヒンドゥー教のテキスト)

「ある」また「いる」の敬語の形態は「御座る」である。

存在するかどうか、それが問題である。-- シェークスピア『ハムレット』
神はモーセに仰せられた。「われは在りて在るものなり」-- 聖書、出エジプト記、3章14 話

「いる」の敬語「御座る」の第二番目の漢字は「座」であり、「高次の自己」が目覚めていて、内的な御座に座っていることを象徴している。礼儀正しさは他の文化よりも日本の文化に於いて大きな役割を果たす。 握手をするまたは抱き合うよりも、人々は尊敬を表わすためにお辞儀をする。日本語には他の国の言葉よりも敬語が多い。

お互いにお辞儀をする
心の礼儀正しさは、密接に愛を関係づける。
-- ゲーテ (18世紀ドイツの詩人、作家)
その最高の形では、礼儀正しさは、ほとんど愛に近づく。我々はうやうやしく、 礼儀正しさについてこう言うかもしれない。寛容であり、情深く、 また、妬まない。高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、 恨みをいだかない。-- 武士道文中、新渡戸稲造

本当の愛は「高次の自己」が目覚めているということの結果である。日本の文化の礼儀正しさとお辞儀することの「内的な意味」は、お互いの「高次の自己」を尊敬することである。

いつも謙虚で柔和で、皆に対して礼儀正しい者は、自分の心の本質を徹底的に実現したのだ。 彼の道の障害物は完全になくなった。-- 慧能(7世紀の中国禅宗の六祖)

観音菩薩の頭の上に座っている
阿弥陀仏(中国の複製品)

頭の上に「カー」があるファラオ (カイロ、エジプト博物館)

左の写真では阿弥陀仏が観音菩薩の頭の上に座っている。大乗仏教で観音菩薩は、「プレゼンス」の状態に到達しようとする自分の中にある執事を象徴している。阿弥陀仏は、「神聖なるプレゼンス」の状態で座って「高次の自己」を象徴している。

私は天に登ると、自分を生かす真実の王座に座る。
-- エジプトのピラミッド・テキスト

右の写真では、歩いているファラオの頭上に、「プレゼンス」に到達する努力を象徴している二つの手がある。

神に手を上げることを一日中続けなさい。 -- クレルヴォーのバーナード(12世紀フランスの修道院長)

歩いていること、つまり「道」を歩いていることも「現在に存在」する努力を示す。座っているのは行き先に到着して、「プレゼンス」が長く継続する状態を達成した、ということを示す。


主は我々の中に、彼が内に存在するという甘い経験への大いなる切望を目覚めさせた。 しかし、それは毎日の成長によって取得するものであって、そして自分は歩くことによって成長する。 このようにして、遂にそれを達成することができる。 -- 聖アウグスティヌス(5世紀、キリスト教聖人)

達磨は中国に禅教をもたらした。伝説によれば、悟りを開くまでに、壁に向かって九年間座禅していたせいで、彼の手足は萎縮し脱落した。手足は人間の思考、感情や感覚、つまり「複数の<私>」を示す。 上記の維摩経の三十七の四肢は、「現在に存在する」努力の喚起を示す。 観音の画では、千手は「複数の<私>」を、下の六肢と上に向かっている四本の腕の十手足が「現在に存在する」喚起を象徴している。

あなたの手足はいずれも、神の喜びのため以外に動くべきではない。
-- アル・スラワルディ(12世紀イランスのーフィー)
ホルスはあなたの手足を統一し、あなたが病気になることを許さない。そのようにあなたを組み立てた。だからあなたに無秩序はない。-- エジプトのピラミッド・テキスト

張子だるま

「だるま」は達磨の坐禅姿を模した置物である。だるまの象徴は豊富で、忍耐力と幸運のお守りと見なされる。 口の部分にある「福」という漢字は、「プレゼンスの状態」、唯一の真の幸運を示す。 だるまは通常赤であり、なぜならば日本と中国の伝統によると赤が悪魔を退治するからである。赤は「複数の<私>」を表す悪魔を取り除く「プレゼンス」の火の燃焼の象徴である。眉毛は長寿の象徴である鶴の形になっている。長寿は時間を超える「プレゼンス」の状態を示す。だるまは丸い形状で、中は空であり、通常張り子で作られている。底が丸く重心が低く作られていることによって倒しても起き上がる。だるまは起き上がり小法師ような玩具である。

七転八起 -- 日本のことわざ

このことわざは、前のとき再び眠ってしまったにもかかわらず、何度も「現在に存在する」努力を再開することを意味している。 頑張れば、最終的に「プレゼンス」を長く継続させる状態に到達する。8という数字は無限大を表わす記号が縦になったものであり、時間を超える「神聖なるプレゼンス」を示す。

おいで、誓いを百回破ったとしても、もう一度おいで、おいで。
-- ルーミー(13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人)

十一面千手觀音菩薩(大阪、葛井寺)

観音菩薩の千手は人間の中の一万の「私」を象徴している。

一万もの世界があり、それらすべての世界がひとりの人間の内面に 存在しているが、人間がそれを意識することはない。 -- ダルカウィ (18、19世紀、スーフィーのマスター)

その内の三十七の悟りの手足は「プレゼンス」の状態を達成するための道具を象徴する物を持っている。この状態を達成した後には、この道具はもう必要でない。達磨の手足が萎縮し脱落した「内的な意味」は、悟りに達したから、その道具はもう必要ではなくなったということである。もう一つの意味は「高次の自己」が「複数の<私>」から自由になったということである。

悟るときは十地と三乗を超え、 四生と六道をも凝滞せしめん。-- 西遊記

観音の十一面の十面は「プレゼンス」の状態に達する菩薩の道具または十住心を象徴している。十一番目の面は「神聖なるプレゼンス」 を示している。だるまは、実は、頭だけであり、この状態に達する精神的な努力の体はもう必要としないということを意味する。 大乗仏教で、この精神的な努力の体は「報身」と呼ばれ、「プレゼンス」が長く継続する状態は「法身」と呼ばれている。

「バー」と呼ばれた頭はミイラから上昇している。
エジプト人の死者の書(原名は「日下出現の書」)より

故人の頭は、上昇し、空に自分を持ち上げハゲタカのようである。-- エジプトのピラミッド・テキスト

この画では頭はミイラという「精神的な努力の身体」から上昇している。 「バー」と呼ばれた頭は長く継続する「プレゼンス」の状態を象徴する。「バー」は毎晩ミイラに戻り、毎朝、再びミイラから飛び立つ。夜と昼は「睡眠状態」と「プレゼンスの状態」を示す。



十三番目のタロットカード「死神」


一般的に「死」は「プレゼンス」が長く継続する状態に達したために不要になった「精神的な努力の身体」の死、または「睡眠の状態」の両方を示す。左のタロットカードでは、死神は手足や頭を切り落としている。ここでは死は「睡眠の状態」または「低次の自己」を示す。

心の睡眠は本当の死のようなものである。 -- 僧・ カリスタス『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
眠っている者よ、目覚めなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。-- 聖書、エフィソの信徒への手紙、 5章14 話

死神は、「低次の自己」が「現在に存在する」ための努力を取り払うことを象徴している。「低次の自己」は「神聖なるプレゼンス」の状態が自分の存在を中断するということを経験する。なぜならば「神聖なるプレゼンス」が現れる時に「低次の自己」は受動的である必要があり、物事を支配することができなくなる。 したがって、「低次の自己」はできるだけ「プレゼンス」または「現在に存在する」努力を取り除こうとする。


死のダンス、15世紀(スイス、ベルン、ミュンスターの大聖堂)



右の画像で「低次の自己」は「現在に存在する努力」を殺そうとする。しかし、僧は「低次の自己」に注意を払っておらず、現在の瞬間に集中し続けている。僧の片手には6本の指があり、別の手は4本の指が見える。指は「現在に存在する」ための道具を象徴する。





達磨は九年間坐禅したと言われる。九という数字も「内的な意味」があり、それは情念を示す。「プレゼンス」に到達するために情念を制御する必要がある。

仏門では、九九の数こそが真に帰すのだ。-- 西遊記
本質を完成する道は「九年間壁に直面する」という仕事である。 九年間と言うと、それは本当に九年の期間があるという意味ではない。それは世上万般は尽くし、天界は純粋な金液の九回復の意味である。
-- 劉一明(18、19世紀、道教の老師)

パチノ・ダ・ブオナグイダ作「喜んで犠牲になるキリスト」(14世紀、フィレンツェ)

仏陀の誕生(紀元前2−3世紀、ガンダーラ)

仏陀が母親の横腹から生まれ、そして木の下で座禅をしたときに悟りを開いたということは、実際には起こらなかったかもしれない。キリストが処女から生まれ、十字架上ではりつけにされたということも起こらなかったかもしれない。モーセが神から十戒を受け取るためにシナイ山に登り、イスラエル人をエジプトから導いたということも起こらなかったかもしれない。道教の賢者は肉体で何百年間も生き、ムハンマドは身体で天に昇ったということも起こらなかったかもしれない。


ムハンマドの第七天国への昇天
(13世紀、イスタンブール、トプカピ博物館)

モーセは神から十戒を受け取る

自分の信仰を強く信じている人が、上記のようなことを読むと、否定や嘲笑といった強い内部反応が起こるだろう。その信仰は、自分のアイデンティティの一部になっており、それが正しくないということを認めるのは自分の一部を放棄することと同じである。これは常に「低次の自己」の強い内部抵抗を呼び起こすつらい過程である。


神聖な存在が、信者に信仰の形として現われると、この信仰は本当である。彼はこの世界でこの信仰を公言する。しかし、ベールが別の世界で解除される場合は、結び目、つまり、彼の特定な信仰に結合する教旨、がほどける。教旨は、直接洞察力によって知識に取って代わられる。
-- イブン・アラビー(12世紀、イスラム神秘主義者)

多数の経典を読んで、さまざまな経典に表示される同じ物語を見て、その「内的な意味」をある程度を理解する人にとっては、「外的な意味」は「内的な意味」の口実に過ぎないということが判明しても、ショックではない。「内的な御座」に座っている人は、すべての経典は「プレゼンス」の状態を指し示す同じ「内的な意味」を持っていることを分っている。「外的な意味」を行ったり信じることは、自分を「睡眠の状態」のままにしてしまう。

これらのことはすべて、皆に一様に教えることはできない。なぜならば、 それぞれの人間は、彼がどれほど理解できるのかの尺度であり、また「秘教の経済」に従い、どのぐらい彼に与えるのが適切であるかの尺度だからである。-- イブン・アラビー(12世紀、イスラム神秘主義者)
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「第四の道と秘教的な伝統」⎟ 「西遊記」⎟ 「神聖なるプレゼンスの技術」


英語: The Secret of the Golden Flower ⎟ The Taoist I Ching ⎟ Being Present First


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