相撲

神社で行われる相撲の式典

相撲の起源は神道にあり、相撲のすべての儀式は、浄化に関連している。 歴史家によれば相撲の起源は2000年前ぐらいにあるとされている。ある神社では、人が神と戦う「田楽」という儀式的な踊りが現存している。相撲は1600年代初めて観戦スポーツとしてだけ栄えるようになった。相撲の試合の内的な意味は、時間の経過とともに失われた。すべての宗教的な象徴、神話、儀式には、人間の高次自己を目覚めさせることに関連する内的や心理的な意味がある。



本来の霊感が模倣にすり替わった際に起こる、文字通りの理解と象徴的な理解の混同は、既成の宗教に特有の問題である。このため、経典における象徴的な意味の啓示や、神話から心理学知識への復元は、禅の本来の教えがもつ特質の一つである。この内的な意味を理解は、あらゆる芸術における禅的な表現への鍵である。-- 沢庵、日本の禅師

経典における象徴的な意味の啓示や、神話や儀式から心理学知識への復元は、禅の本来の教えだけがもつ特質はなく、それはすべての秘教的な伝統がもつ特質である。 浄化のための相撲式は、彼の高等自己の存在を妨げる心理学での面を取り除く内部浄化を象徴する。相撲の試合は、聖になるプレセンスが表れることができるために、「執事」と呼ばれる覚醒しようとする人の部分が、心を浄化しようとするために、執事と低次の自己の間の内部の闘いを象徴している。

相撲取組/試合

主はどのように悪魔と取り組むかを教えてくれた。 

-- エルサレムのヘシキウス『フィロカリア』(ギリシア正教の修道僧による文献)
精神は精神と取り組む、自分の精神と敵の精神。 

-- シロナン・アオナイト、フィロカリア
人は内面の葛藤を克服せず、障害物のないままに生きて、思うまま、風が吹く方向に行ったら、彼はこのまま何も変わらないだろう。 


-- グルジェフ(20世紀第四の道の神秘思想家)

すべての聖典には戦争に関する一節がある。 これらは、「執事」と「低次の自己」との戦いを象徴する。 最大の戦いは、「低次の自己」を制御することである。

天の扉を開くための戦争がある。 そのような運命に生まれた戦士は幸いである。-- バガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー教のテキスト)
最高のジハードは、「低次の自己」の欲望と誘惑に対する戦いである。 -- ムハンマド (イスラム教の開祖)
わたしが来たのは地球に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。--『新約聖書』 マタイによる福音書、10章34節

善と悪の闘いは、神話、おとぎ話や文学の中で最も一般的なテーマで、人間の状態の普遍的な部分である。なぜならば、人間は低次の自己」と「高次の自己」から構成されている。

執事を象徴する英雄は、
蛇(低次の自己の象徴)と闘う。
歌川国芳, 1797-1861)



身についた不死不滅のものを失ってしまった、残ったのは獣にもあるものばかりだ。-- ウィリアム・シェイクスピア、「オセロ」
人間は二つの本性でできている。ひとつは動物的あるいは低次の自己、そしてもうひとつは霊的あるいは高次の自己である。これというのも、後者の発達のために前者が必要だからである。 -- カバラ、「ゾーハル(光の書)」




善と悪の闘いは神道の伝統でも重要な部分であり、純度や汚染として提示される。

神道の本質は、汚染や純度によって表わされる、善と悪との関係である。 このような不純物と悪は、 儀式によって浄化される。 
-- 「神がそばにいる」文中、タラ・マグダリンスキ 
もし彼が自分が眠っているということを理解し、彼が目覚める希望を持っているならば、目覚めさせることはすべて善であり、彼を妨げるものや彼の睡眠状態を長く継続させるすべてのものは悪である。 -- グルジェフ(20世紀第四の道の神秘思想家)
善と悪は自分自身だけから来るものである。良いことは、自分の目的と性質に調和するものであり、悪いことは自分の目的と性質に反し、競合するものであることを意味する。
-- イブン・アラビ ー
(12世紀、イスラム神秘主義者)

土俵から悪霊を駆除する貴乃花


試合前に横綱は、土俵から悪霊を駆除するために脚踏みの四股運動を実行する。悪霊というのは「現在に存在する」(神道の言葉でいえば「中今を生きる」)努力の注意を奪う思考や感情である。

すべての悪魔の起源は心自体である。 意識があらゆる外側の物事を捉えたとき、悪魔によって捕まえられた。 -- 瑪吉拉尊, 11世紀のチベットヨギニ


ある元力士は、「土俵は単に試合が行われるところではなく、神が降りて来る神聖な場所である」と述べた。神道に神聖なすべての場所は「注連縄」で境界を示され、「依り代」を意味する。「依り代」は、神が宿ることのできる場所、物体、人物である。土俵の円と正方形はわらでできており注連縄として見ることもできる。土俵は神と悪魔の間の闘争が行われる心理的な場所を象徴している、つまり「心」。「神」または「天使」にも内的な意味があり、それらは「心」の中に降りて来る「現在に存在する」神聖な喚起を象徴する。

天使たちは人間の潜在能力と器官に隠された力である。-- イブン・アラビー(12世紀、イスラム神秘主義者)
精神的な闘争の中で最も重要なことは、心の中でサタンと戦争することである。 サタンの思考に反して彼と戦う。 
-- 『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

相撲の土俵

手水鉢(京都、龍安寺)














相撲の土俵の形状は正方形の中に円がある。右上の手水鉢は円形の中に正方形がある。示された文字の吾/唯/知/足の意味は「高次の自己」が目覚めるとすべてにおいて満足する。円と正方形の解釈はこちらへ: 円、四角、三角。

神社で儀式を行う際には、力士は、腰部の周りに「注連縄」という神聖な縄を着用している。

神社で儀式を行う力士

神社で儀式を行う力士















注連縄は力士の背中に円を形成する。この注連縄は日本文化の多くの側面で見られる。

家の入り口、伊勢神宮、木の周りと 「夫婦岩」の間の注連縄

この注連縄はすべての秘教的(エソテリック)な伝統で見ることができ、神のロープとも呼ばれている。

私は神聖な木にロープを固定する。私は魔術師であり、法の家に登れるように、それに8つの折り目を作る。
-- 神聖なナフアの賛美歌

ロープを保持する6人のエジプトのイメージ(オランダ、ライデン)

神から離れているのは井戸の底にいるようであり、ロープは彼の想起である。
-- シャムス(13世紀のペルシャイスラム教徒)
アラーの縄に、皆一緒に捕まり、離れないでください。 -- コーラン


このエジプトのイメージで6人の男は、ロープを使って、太陽神ラーの船を引いている。彼らはその船を心理的な睡眠の状態を象徴する暗黒街と呼ばれるアンドアットの中で引き戻そうとしている。そうするとラーは昼間(プレゼンスの状態)の間に、再び輝きを取り戻す。注連縄または神のロープは、「高次の自己」または「内なる神」を目覚めさせるための途切れない努力を象徴している。

あわれなる者よ、神を内に抱えながら、それを何も知らずにいるのだ。
-- エピクテトス(古代ギリシアのストア派の哲学者)


注連縄の意味は「注意を接続するロープ」である。このロープの意味は、自分が「内なる神」を目覚めさせようとするとき、「現在に存在する努力」への注意を奪う思考を許すまいとすることである。


女性が土俵に立ち入ることは許されていない。近年、徐々に減少しているが、現在も世界の多くの宗教で、女性には神聖な場所への立ち入りは禁止されている。例えば1863年まで、女性は日本の霊山の一つである富士山に登ることは許されなかった。

教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。 -- 聖書、 コリント 14章35話
女性の言葉を心にかけないでください。女性は病気のようなものであり、生命の木から離れると、それを破壊する。 -- エジプトのテキスト

すべての宗教の神聖な場所は心と呼ばれる感情センターの知性的部分を象徴する 。

心は神の幽然な神社である。-- アルディン・ラージー(13世紀のペルシャスーフィー)
私の魂の中に私が跪く寺、神社、モスク、教会がある。
-- ラビア
(8世紀の女性のペルシャのスーフィーミスティック)

感情センターの知性部分またキングオブハートは「現在に存在する」ことに興味を持つ人間の中の唯一の部分である。 女性は四つの低次のセンター(感情、知性、運動、本能センター)の感情的な部分(クイーン)を象徴する。「喜び、怒り、悲しみ、幸福」と「世俗的な欲望」という、このセンターのクイーンから来る感情は「現在に存在したい」という願望と同時に現われることができない。

女性というのは自分の欲望の奴隷であり、 自分以外の何かまたは誰かを考慮しない人を象徴する。
-- イブン・アラビー
(12世紀、イスラム神秘主義者)


これらの感情は、実は自分の注意力を自己想起の努力から奪う。「不思議の国のアリス」の話の中に、ハートのクイーンは人に不満があるときに「首を切って」と何回か言う。これは感情センターの感情的部分からの否定的感情を象徴する。しかし、ハートのキングは、その後一人一人を許した。これはハートのキングがハートのクイーンを支配することを表わす。センターの感情部分がアクティブになっているとき、人は、この写真の女性のように、心を奪われた状態になっている。 彼女のすべての注意が会話に向けられている。彼女は何か問題がある様で、自分のアイデンティティは完全に会話の中に吸収されている。この状態は、男性でもまったく同じように発生し、男性あるいは女性であることは何の関係もない。 センターのクイーンから来る「私」は自分を支配し、センターの知性的部分は機能せず「現在に存在したい」という願望が欠けている。 その結果、人の中に出現するどんな「私」からも支配され、「睡眠の状態」で生活を送る。


女と姦淫を犯す者は理解を欠いている。これを行う者はおのれを滅ぼす。 -- 聖書、箴言、6章32話

執事または「王子」の仕事は、高次の自己または「眠りの森の美女」を目覚めさせることである。 そのために執事または知性は心にある「現在に存在する」願望に接続する必要がある。もし知性が低次のセンターの他の部分との関係を持っているならば、それが不倫として例えられた。その場合「眠れる森の美女」は眠ったままになる。 スーフィー文献では、執事は「愛人」、「プレゼンスの状態」または天照大神は「最愛」と呼ばれる。

あなたは「最愛」を離れて、他の人を考えている。だから、すべての努力が無駄である。
-- カビール
(15世紀のインドの神秘的な詩人)

「現在に存在する状態」は、画像の女性が経験している状態と反対である。 それはその瞬間、自分自身に気付いていて、機能している部分と観察している部分の間の分離感があるということに特徴付けられる。

相撲の力士は他のスポーツ選手よりも個人の生活の自由が少なく、スポーツ選手の中でもっとも制限された生活を送る。 人前で力士は、謙虚で穏やかな話し方をし、控えめな態度を期待される。言い換えれば、彼らは四つの低次のセンターのクイーンの部分から反応することが許可されていない。日常生活は、「低次の自己」を制御する執事を象徴しているように、厳格な規則によって定義されている。力士の生活は「頑張る」という言葉で例示されている。英語で「グッドラック」を言う場面で、日本人はよく「頑張ってください」と言う。これは努力なしに得ることは何もないという日本人が持っている理解を反映している。日本では努力すること自体を評価するが、欧米では成果なくして評価なしと見なされる。その「内的な意味」は、「現在に存在する」ための努力を行うときに、結果を期待することではなく、その努力だけが重要であるということである。「頑張る」のもう一つの意味は「決してあきらめない」ということである。「高次の自己」を目覚めさせる戦いに関して、これは必要な態度である。しかし、その戦いがなければ、「睡眠の状態」で行うどのような努力でも、最終的に何の値打ちもないのである。

この世界では忘れてはいけないことが一つある。 他のすべてのことを忘れても、このことを忘れないならば、心配する必要はない。 一方、もしあなたがすべてのことを行って、覚えて、一つのことも忘れず、しかしこのことを忘れるならば、あなたは何もしていないのと同じである。
-- ルーミー
(13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人)
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英語: The Secret of the Golden Flower ⎟ The Taoist I Ching ⎟ Being Present First


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