神道

「中今(なかいま)を生きる」という神道に由来する言葉はこの一瞬一瞬、「今」を生きているという意味である。心理学的な観点から見れば、人間はめったに「中今」を生きていない。彼の思考は、連続的に過去や未来に迷い込む。 目の前の作業に集中していても、彼は作業に夢中であるせいで、現在の瞬間に気づきはない。その人生は、自己意識を踏まえずに通過する。「中今を生きる」ことは、「私はこの瞬間に、ここにいる」ということに対して注意を払うことを意味する。これは、通過の瞬間に自分自身を観察する努力である。

天照大神は洞窟から出現した

















天照大神(あまてらすおおみかみ)は太陽の女神で、神道で最も重要な神である。 彼女の名前は輝く天国を意味する。嵐の神、須佐之男命(すさのおのみこと)は彼女の兄であり、「低次の自己」を象徴する。彼が暴れて地球を壊したとき、とても騒々しかった為に彼女は洞窟に退いた。彼女は大きな岩で洞窟を閉鎖した。彼女の失踪は、世界から光と生命を奪った。その結果、悪魔が地球を支配した。天照大神は「プレゼンス」の光を象徴する。これが失われると、睡眠または暗闇の状態の中で悪魔が私たちの生活を制御する。悪魔というのは私達の頭の中に巡る思考と感情の象徴である。他の神々が彼らの力のすべてを使用して彼女を誘い出そうとしたが失敗に終わった。最後に、「天鈿女命」(あめのうずめ)が成功した。彼女のコミカルでエロチックな踊りを見た神々が笑ったときに天照大神の好奇心が喚起された。洞窟から出現したとき、彼女は「天鈿女命」が近くの木に掛けていた鏡の中に自分の華麗な姿を見た。「天鈿女命」と鏡は両方「現在に存在したい」という希望を持っている純粋な心を象徴している。心の鏡に埃(複数の「私」)がなければ、神(プレゼンス)のイメージを反映することができる。

心の鏡の浄化のプロセスとは何だろうか? それは現実を歪曲する自分のエゴとの終わりのない戦いである。 

-- イブン・アラビ(12世紀、イスラム神秘主義者)

樹木に付いている注連縄

神道の神聖な場所に注連縄(しめなわ)が付いている。このロープは神の存在を示すために樹木の周り、または悪魔(「現在に存在する努力」への注意を奪う思考や感情)を追い払うために、神道の神聖な場所に配置されている。木は、「プレゼンス」に達した心の古代の象徴であり、命の木と呼ばれている。

私は命の木と一体になっている。 私の栄光は山の頂上のように上昇する。 私は自己を実現している。
-- ウパニシャッド(ヒンドゥー教のテキスト)

御幣(ごへい:縄に下がっている白い紙)は神道の信仰の純度、つまり純粋な「プレゼンス」の状態が長く継続することを象徴している。

私は、純粋で、純粋で、純粋で、純粋だ! 私はヘリオポリスで神聖な眼が完成する過程を見た者である。
-- エジプトのテキスト、「日下出現の書」

注連縄は神の想起、「現在に存在する努力」を象徴している。

神社にある注連縄

神から離れているのは井戸の底にいるようなもの、ロープは彼の想起である。

-- シャムス(13世紀のペルシャイスラム教徒)

高次の自己から離れているのは、井戸の底の闇の中にいるようなものである。ロープを使うことによって、それから登ることができる。

今見よ、どんな天の知恵の明らかな痕跡を持っている不思議な秩序。従って、賢明かつインテリジェントに編みあげられた、三重と切れ目のないコードとして、神の作成された祈りガ完了した。-- 僧カリストス『フィロカリア』(ギリシア正教の修道僧による文献)

家の玄関の注連縄

注連縄はまた、新年の初めに人々の家の入り口に
配置される。

アラーに固守する人は、切れ目のないロープにしがみつく。
-- アル・ブサイリ(7回世紀のイスラム教徒)

新年は、更新の象徴である。明治維新(1873)の前に、日本のお正月は中国の太陰暦(2011年の場合は2月3日)に応じて、祝われてい た。中国の旧正月は冬が終わり、春が訪れる時である。これは「睡眠の状態」の終わりと「神聖なるプレゼンス」の始まりを象徴する。


ロープを保持する6人のエジプトのイメージ(オランダ、ライデン)

このエジプトのイメージで六人の男は、ロープを使って、太陽神ラーの船を引いている。彼らはその船を心理的な睡眠の状態を象徴する暗黒街と呼ばれるアンドアットの中で引き戻そうとしている。そうするとラーは昼間(プレゼンスの状態)の間に、再び輝きを取り戻す。生命の呼吸 の項目では、秘教的(エソテリック)な伝統においては一呼吸の期間を人間や動物として象徴することを説明した。この画像では六人の男は自己想起が行われている六呼吸を象徴している。

神々は夜の船にあるロープを握っている。
-- エジプトのテキスト、アンドアット(九時限目)

僧空也上人(京都 、六波羅蜜寺)

僧空也のこの素晴らしい像では、同じ象徴を見ることができます。 空也は、ワイヤに接続された、六つの像に象徴される阿弥陀仏の名前を六回繰り返している。これは阿弥陀仏の西部の楽園に象徴にされた「神聖なるプレゼンス」の状態に生まれ変わるためのマントラを表わしている。

チェーンのリンクのように、毎日の想起の訓練を絶え間なくしてください。
-- ジャマルデン(7世紀のスーフィー詩人)

一日は、一つの呼吸として象徴される。夜は吸気で、昼は呼気を表わしている。

「一日」が「一呼吸」に例えられるのを見つけるでしょう。
-- クレルヴォーのバーナード(12世紀フランスの修道院長)

阿弥陀の名前以外の思考に注意を払い始めると、現在の瞬間に注意することを忘れてしまい、リンクが壊れている状態になる。「現在に存在する」ことを喚起させる「存在」(Be)は作用されていないために睡眠の状態に戻る。

存在するかどうか、それが問題である。-- シェークスピア『ハムレット』



注連縄の意味は「注意を接続するロープ」である。六つの「プレゼンス」を喚起するため、短い言葉を使うときに現在に集中する注意力を他の思考に中断されないようすることである。


相撲の儀式を行う曙

ハート形の顔の土偶 、縄文時代
(10.000〜1000年)




力士が試合の前の儀式を行うとき、御幣が付いている同じロープを着用する。

アラーの縄に、皆一緒に捉まり、
離れないでください。-- コーラン




輪形の注連縄と正方形の鳥居がある茅の輪潜りの儀式(今宮厳島神社)


















 人々は、 無限大の記号∞のようにループを三回通過する




いくつかの神社では、六月三十日に円形の注連縄を使って儀式を行う。人は繁栄と健康を願って、円を三回通過する。円を通過し左側に回り、再び通過し右側に回り、8の字状の形で回る。 8という数字は横たわっている無限大を表わす記号であり、時間の超越と不滅の意味がある。




第六番目の日が完了した者は、神の助けを借りて、自分行いを完結させた。彼の安息日は彼の知性が造った存在を超越した日である。しかし、彼はまた、第八番目の日に価値があると認められれば、死者の中からよみがえることができる。即ち神にシークエントである全てのものからよみがえることである。彼は唯一の真の存在である神の祝福に満ちた生活を経験し、神と一体化することによって、自分自身が神になる。
-- マクシムス・コンフェッソル『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

十牛図の第八絵の円は空であり、「低次の自己」の不在と、空虚によって特徴づけられる「高次の自己」の存在を象徴している。

その愛と喜びが遍く存在している神(高次の自己)は、あなた(低次の自己)が不在でない限り、あなたを訪れることはできない。-- アンジェラス・シレシアス (17世紀のカトリック神秘家)
身を引け、ハーフェズよ。邪魔をしているのはお前なのだ。-- ハーフェズ(14世紀のイスラム神秘詩人)  

8という数字は不滅と空虚の象徴である。

8という数字は8の風の空虚に関係する。 -- 中国の知恵
「オウム」はすべての実体の中で最高であり、最高の位置に値する、即ち第8番目である。
-- ウパニシャッド (ヒンドゥー教のテキスト)
物理的なレベルを超越するのは8である。-- タルムード(ユダヤ教のテキスト)

この茅の輪潜りの儀式を通して、人はその年の上半期での苦しみや不幸を消去することができる。この輪の有効性への信仰は備後地方(現在の岡山県)の古代の編年史『備後国風土記』に起因する。その中で英雄の「蘇民将来」(そみんしょうらい )は、猛威を振っていた伝染病から身を守るために葦の輪を成形し腰の周りに着用することを、月の神「月読尊」に助言された。この輪を横綱の腰の周りや相撲の土俵に見ることができる。

流行する伝染病から身を守るという事の「内的な意味」は、我々は毎日を過ごす「睡眠の状態」から自分を保護することである。「睡眠の状態」は病気に例えられ、この病気の治療法は「現在に存在する」ことである。

実際に教えを受けるときには、自分自身を患者、法を薬、グル(尊師)を医師とみなすべきである。
法を聞いて、実行するのは病気から回復するとみなされるべきである。
-- ガンポパ(チベット仏教、12世紀のカギュ派の開祖)
薬を集めることは、自分の中の意識の本質の真の意を集めることを意味する。そのやり方は、最初に心を静めることによって、任意の感情の衝動を停止するというものである。静けさが完成されると無条件のエネルギーの動きがある。これは真の意味のエネルギーで静寂から生じ、その最初の動きは、「陽」の復帰と呼ばれている。-- 李道純(13 世紀の道教の老師)『中和集』

不運を経験すると不幸せを感じる理由は、不幸自体よりもその不運についての思考や感情、つまり「多数の<私>」が存在するからである。

良いことや悪いことは何もないが、すべては自分の考え方に起源する。 -- シェークスピア『ハムレット』

これらの思考や感情を停止し、またはそれらから自分を分離することができたら、この「多数の<私>」によって制御されることなく、自分の生活の次の瞬間に進むだろう。その代わりに、ロケットが宇宙に起動するために燃料を使用し、使い切った燃料容器を捨てるように、「プレゼンス」の状態に起動するためにこれらの思考や感情を燃料として使うだろう。 これは「健康的なダイエットに励む」つまり他の思考に耳を傾けることなく「プレゼンス」を喚起する「私」しか聞かないことによって行う。結果として生み出される「プレゼンス」の状態はその不幸に影響されることはない。なぜならば「低次の自己」は受動的で、制御されているからである。これは、真の幸福、真の豊かさ、真の健康である。定期的にこの状態を達成する能力を持っているならば、この能力を世界のすべてのお金と交換する望みはまったくないだろう。

聖人が悲しむことなく苦難を受け、喜びを経験しても幸せにならない理由は、彼は自己を失っているからである。無の境地に達すると、自己が失われているので、さらに失われることはないだろう。
-- 達磨(禅宗の開祖)
私はこの肉体ではなく、この知性ではなく、これらの感情でもない。 私は単に観察するだけである。私は永遠の目撃者である。 -- 禅師

円形の注連縄を三回歩いて通過する儀式の「内的な意味」は、現在に注意を集中することによって「現在に存在」することである。このことは円形の注連縄に象徴される。なぜならば注連縄は注意を継続する縄という意味だからである。現在に注意を集中することは、円によって象徴されるマントラで行う。摩擦(不幸についての思考や感情)を「プレゼンス」に変容させることによって、人は頭の中にぐるぐる回る「多数の<私>」を浄化し、それらから保護されている。

伊勢神宮神社の近くにある伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)を象徴する夫婦岩

























夫婦岩は「プレゼンス」に一つになる伊邪那美(いざなみ・心を表す)と伊邪那岐(いざなぎ・知性を表す)を象徴する。心は「現在に存在」する欲望を与え、教育された知性は「現在に存在」するために必要なツールとスキルを持っている。

心と知性が統一するというのは心の精神的な感情や知性の精神的な思考が統一するという意味である。
-- ビショップ・イグナチ『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
もし私が、神が絶対的であり、すべての人間の経験を超えているという事実を受け入れるならば、彼は私と関係ない。 私は彼に影響を与えない、そして、彼は私に関わりを持っていない。しかし、神とは私の魂の中の力強い衝動である ということを知っているならば、私はすぐに彼と関わる必要がある。そうすれば、 彼はすべての 現実の影響を及ぼす範囲内に属するものと同じように 重要になることができる。
-- カール·グスタフ·ユング(20世紀心理療法)

岩が注連縄で連結され、マントラを象徴している。岩は、仁王と同様にこのマントラの始まりと終わりを象徴する。 一番大きな岩の上に「プレゼンス」が長く継続する状態が達成したことを象徴する正方形の鳥居がある。 神道の鳥居というのは俗界から神聖な世界までの移行、つまり「睡眠」の状態から「神聖なるプレゼンス」の状態への遷移を示す。

タントラの性の交わりを行う男女(19〜20世紀、インド)
















このインドの絵画では、性交に従事するカップルが描かれ、知性と心は一つになるという同じ象徴を見ることができる。性交というのは、「神聖なるプレゼンス」を作成する知性と心の精神的な統一の象徴である。「低次の自己」は「多数の<私>」から構成されていて、「高次の自己」が目覚めていると統一された状態になる。彼らの肉体は正方形を形作り、「プレゼンス」が長く継続する状態を示す。性交も神と一つになることの象徴として使用される。

スーフィーの詩において、「最愛なる者」との分離または結合に言及するとき、スーフィーはそれが、神との分離または結合という意味であると理解している。
-- アル・ガザーリ(11世紀ペルシャの神秘的なスーフィー)
密教における表現では、特に性的欲求は神と一つになりたいという信奉者の欲望の例えとして使用され、
偉大な至福感は神に象徴された宇宙の統一の達成を示す。
-- 山崎 泰広『真言宗、日本の密教』
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「第四の道と秘教的な伝統」⎟ 「西遊記」⎟ 「神聖なるプレゼンスの技術」


英語: The Secret of the Golden Flower ⎟ The Taoist I Ching ⎟ Being Present First


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