祭り

京都の祇園祭

ほとんどの祭りは現在その宗教的な意味を失っていて、参加者や見物人はその楽しさと興奮を楽しんでいる。 祭りの語源は、元々神事において神に仕え祀る、本来の意味は神と人との交流の場として神をお招きして饗応(きょうおう=接待)をすることである。神に会う時、清潔である必要があるので、祭りの前に浄化の儀式がある。 祭りの「内的な意味」は、「神聖なるプレゼンス」の状態または「内なる神」の到着を引き付けることである。 この意識の状態を体験するために、現在の瞬間に集中し、気を散らす多くの思考と感情から自分を浄化することである。



最も重要なことは、心を純粋で清潔に保つことである。 心が汚染されていると、どんなに儀式があっても、それは十分ではない。 
-- ヒンドゥー教のテキスト


正月

12月31日の夜、日本人は寺を訪問し、寺の鐘を108回鳴らす。 各残響に、悪い経験や間違った行為および昨年の不運を拭いさることを望む。 したがって鐘を鳴らすことは、楽しく新鮮な新年のスタートを呼び込むことである。

正月に鐘を鳴らす六人のお坊さん





















108という数字はすべての東洋の宗教の中に見つけることができ、それは情念を意味する。 仏教では百八濁という概念がある。

浄土 (阿弥陀仏の浄土、プレゼンスの状態の象徴)はここから遠く離れた場所にあるわけではない。 なぜならその距離は十万八千里であるが、これは実は私たちの内にある「十の悪」と「八つの誤り」 を象徴しているからである。-- 慧能(7世紀の第六禅宗の開祖)
西方の仏様は、天竺国なる大雷音寺におられますから、ここから十万八千里もの道のりがありますぞ。
-- 西遊記

中国の小説「西遊記」に於いて、中国の長安から仏陀が住んでいるインドの霊鷲山までの道程は十万八千マイルとされている。 これは、情念を支配すれば阿弥陀仏の浄土に象徴される「プレゼンス」が長く継続する状態に達することができることを意味する。「九」という数字のすべての倍数、「一八」、「三六」、「七十二」、「八一」、「百八」などは情念を象徴するために使用される。

快感の対象へ向かって三十六の渇望の川が激しく流れている者は、情念の波によって流し去られる。そのような者の洞察力は乱れており、その思考は邪悪である。-- 仏陀
探求者が道から逸れてもそれを許すがよい。七十二もの教義が絶えず探求者に呼びかけているからである。
-- ハフィス(14世紀のイスラム神秘詩人)

左に日、右に月がある「明るい」の漢字

日本人は「明けましておめでとうございます」と言って、「良い新年になりますように」という願いを表現する。 この文章で唯一の漢字がある。 この漢字は、「日」と「月」の漢字の組み合わせであり、太陽と月は明るさを作ることを示す。「日」は「神聖なるプレゼンス」を象徴し、「月」はこの状態を生み出そうとする自分の「執事」を示す。

太陽と月が一つになると、神の意志になる。
-- ケツァルコアトル(メソアメリカの神)

新年は更新の象徴である。明治維新(1873年)以前、日本のお正月は中国の太陰暦(2011年では2月3日にある)に準じて祝われていた。中国の旧正月は冬の終わりと春の始まりであり、つまり 睡眠の状態睡眠の状態が終わるのと「神聖なるプレゼンス」の状態の始まりを象徴している。

あなたの船を囲んでいる嵐はあなたの魂の冬である。-- ジョン・バルサヌフィアス『フィロカリア』(ギリシア正教の修道僧による文献)
船はあなたの心である。それを守りなさい。 -- グレート・マカリウス『フィロカリア』
悪魔がもの凄い轟音をたてながら現われ、情念で心の中に暴動と嵐を発生させる。
-- シミヨン・新しい神学『フィロカリア』

家の入り口にある、正月の注連縄飾り 

「明けましておめでとうございます」の「内的な意味」は新しい生命が開始すること、闇(睡眠の状態)が光(プレゼンス)に変わることを祝福している。 情念が制御されていると、長く継続する「プレゼンス」の状態が発生可能である。









注連縄(しめなわ)の「注」の意味の一つは、精神を集中することである。注連縄の意味は「注意を接続するロープ」である。 それを逸脱させることなく、自分自身と現在の瞬間に集中することによって、「内なる神」を目覚めさせることができる。

鎖の連結のように、毎日の想起の訓練を絶え間なくしてください。
-- ジャマルデン
(7世紀のスーフィー詩人)

伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)を象徴する夫婦岩と日の出

1月1日の日の出前に、日本人はよく初日の出を見るために海岸へ行ったり、山に登ったりする。初日の出を見ることは古代から習慣付いていて、元々は旧暦に基づいた新年に行われ、春の始まりと一緒に行なわれた。

祈りの終わりには、神の想起とともに 太陽の上昇まで座っていなさい 。 
-- アル・ガザーリ(11世紀ペルシャの神秘的なスーフィー)
人間の己と太陽の己は一つである。これを理解する者は世界を見通す。-- ウパニシャッド(ヒンドゥー教のテキスト)

ルクソール神殿のかつての様子を再現した
写真、 右のオベリスクは現在パリにある

六匹のヒヒとともにいるイシスとネフティスは太陽神「ラー」の太陽のディスクを上昇させる。

神の姉妹イシスとネフティスが太陽を上げるのと同じように門の前の左と右に二つのオベリスク(方尖柱)がある。
-- エジプトのエドフ神殿の説明

多くの秘教の伝統は、「神聖なるプレゼンス」の状態の象徴として太陽を用いている。 例としては、チベットと日本の密教の「大日如来」、エジプトの太陽神「ラー」と神道の「天照大神」(あまてらすおおみかみ)がある。


精神的な訓練の甘美は夜明けのようであり、目撃することは太陽のようなことである。 

-- ルズビハン・バクリ(12世紀のスーフィー神秘的な詩人)


節分

節分に有名人が豆を投げている。

日本の正月を中国の旧暦により祝っていたときに新年に行われたもう一つの祭りは「節分」である。「節分」は現在は2月3日に祝われる。 「節分」を祝う際に最も一般的な習慣は悪霊や悪魔を追い払うための伝統的な豆まきである。

あなたの邪悪な思考から、大魔王が生まれる。 

-- 「ハーフェズ」 (14世紀のイスラム神秘詩人)

私は見つけにくい悪魔の戦士インドラジットである。私は人目につかず、魔法によって視界から隠されている。私は邪悪な思考の荒れ狂う風の背後から攻撃をしかける。-- ラーマーヤナ(ヒンドゥー教のテキスト)

悪魔は、自分自身を現在の瞬間に集中することから逸脱させる「複数の<私>」、または悪の思考と感情を象徴している。 これらの思考や感情は日常の生活の観点から見ると、役に立つ良いものであったとしても、それらは私たちを「神聖なるプレゼンス」から心理的な睡眠の状態に連れ去るので、悪である。 良い思考は私たちに「現在に存在すること」を喚起させる思考である。

自宅で行う豆まき

豆まきは通常、一家の主である男性が「鬼は外、福は内」を唱えることにより行われる。 一つの豆は一つの「プレゼンス」の喚起を象徴している。「プレゼンスの状態」では、「複数の<私>」または悪魔を観察することができ、それらに耳を傾けないで、ただ無視することによって彼らは「外」に出る。 幸運は「プレゼンスの状態」を示す。この状態を経験するよりも大きな幸運はない。この状態を長く継続させると、本当の幸福と愛を体験することができる。


見ること、聞くこと、感情、欲望と意見はすべて自分の内側に存在する泥棒である。 しかし、内なる心が目覚め、 警告し、それらの真ん中に超然と座っていると、それらの泥棒が変化し、家のメンバーになる。
-- 洪自誠(16世紀の中国の哲学者)『菜根譚』

一家の主は、自分の中の世帯のメンバーである「複数の<私>」を制御することによって、「プレゼンス」の状態を戻そうとする「支配する原理」または「執事」を象徴している。

敵は家の者であるだろう。-- 聖書、マタイによる福音書、10章36 話

福升

豆まきの儀式に於いては、伝統的には福升が豆を運ぶために使われる。 升の正方形は長く継続する「プレゼンス」の状態の象徴である。

一尺方形の家の一寸方形のフィールドの中に、翡翠の寺院の至高の無と光の神が宿る。 --『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)
神聖なる正方形の頭がある素晴らしい獣、奇跡的な生き物、海の仙人。白く柔らかい甲羅を持つ古代の亀である。-- 西遊記


神輿

神輿

神輿は祭りの時に担がれる携帯できる神社である。祭りのときに神輿を担ぐ習練は平安時代(794〜1192)の中期に始まった。当時、一般的な疫病の原因は悪魔によるものと信じられていたので、 これらの悪魔を取り除くために、その神社に参拝する人々が住んでいる近所に神輿を運ぶようになった。神輿は神の乗り物として使う。

心は神の閑居な神社である。
-- アルディン・ラージー(13世紀のペルシャスーフィー)
自分の心は、あなたの許しがなければ有害な何物も入ることができない、神聖な囲いである。
-- ラルフ・ウォルドー・エマーソン(19世紀のアメリカの詩人)



サウジアラビアのメッカにあるカーバ神殿

長方形、六角形、および八角形などの他の形もあるが、神輿の基本的な形は、屋根がある立方体である。 カーバ神殿はイスラム教の中心的な神社であり、それも立方体である。 ここは、サウジアラビアでイスラム教が興る以前からすでに最も重要な聖域として巡礼者を集めていた。 カーバ神殿の名前の意味は「正方形」である。 イスラム教徒にとって、カーバ神殿は神の家であり、ここで神と俗界が接触する。(元の名前は「べス・エル」で、「神の家」を意味する)

心は神聖なカーバである。 -- イブン・アラビー(12世紀、イスラム神秘主義者)
あなたがたは、自分が神の宮であって、神の御霊が自分の
内に宿っていることを知らないのか。-- 聖書、コリントの信徒への手紙、 3章16 話
最初に心を守り、その情念を浄化することによって、基礎を準備しなさい。次に、外側の五感を通した悪魔によって発生する自分に対する反乱を撃退することによって、精神的な家を作りなさい。そのような攻撃を遮断することをできるだけ早く学びなさい。それができた時だけ私たちが屋根を配置し、つまりすべてを完全に放棄することによって、自分を完全に神に委ねる。 このように我々は精神的な家を完成するだろう。
-- シミヨン・新しい神学『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献) 

正方形の第三の目がある教師(チベット、14〜15世紀)


神輿は神が宿っている精神の家を象徴し、「神聖なるプレゼンス」に従事している心である。 心は心臓ではなく、天の心を示している。

一尺方形の家の一寸方形の場所で生命を統制することができる。一尺方形は顔である。顔の中の一寸方形の場所、それは天の心以外の何物であるか?
--『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)



上に鳳凰がある神輿を運ぶ男性

「内なる神」が精神的な家に目覚めていると、自分の頭の中に回っている多くの思考や感情はもう自分の状態に影響を与えることができず、自分は輝かしい現在の瞬間で目覚めている。 これが、疫病を起こす悪魔を取り除くために神輿を担いで歩く「内的な意味」である。 疫病や病気は私たちが生活の大半を過ごす睡眠の状態の象徴である。

誰が目覚めているか、誰が眠っているのか? 心が眠っている。 自分を神として認識しているのは目覚めているのである。 -- ララ(14世紀のインドミスティック)

実際に教えを受けるときには、自分自身を患者、法を薬、 グル(尊師)を医師とみなすべきである。
法を聞いて、実行するのは病気から回復するとみなされるべきである。
-- ガンポパ(チベット仏教、12世紀のカギュ派の開祖。)
これは奇妙な眠りではないか。 目を大きく見開いたままで、眠っているのである。 立って、歩いて、話しながらも、 ぐっすりと眠り込んでいるのだ。 -- シェイクスピア、テンペスト
想起の消失は睡眠の本質である。-- イブン・アラビー(12世紀、イスラム神秘主義者)

金閣寺の上の鳳凰

神輿の上の鳳凰


通常、神輿の上に鳳凰がある。 鳳凰は復活、不死、および更新の象徴である。

私は純粋、純粋、純粋、純粋である! 
私の純度はヘリオポリスの偉大な鳳凰の純度である。 
-- エジプトのテキスト、「日下出現の書」


「神聖なるプレゼンス」の状態の象徴である鳳凰は、時間の外にいるために不滅である。 鳳凰は死んだ後に自分の灰からよみがえり、「プレゼンス」の状態が再び睡眠の状態から再生するのを象徴している。

アリス:永遠ってどれくらいの長さなの?白ウサギ:時々はたった一秒だよ。-- 不思議の国のアリス
決して、神の想起なしではいけない。
彼の想起は精神の鳥に、強さ、羽、翼を提供している。
-- ルーミー (13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人

ツタンカーメンのカノピック神社 (カイロ、エジプト考古学博物館、第18王朝)

ツタンカーメンのカノピック神社の中身:
四つのカノピック瓶

ツタンカーメンの神社は、神輿やカーバ神殿と同じことを象徴している。

あなたの聖堂はあなたにとって、秘密の場所がある心である。
-- エジプトのピラミッドテキスト

神社には、古代エジプト人が来世に生まれ変わるために必要と信じていた、故人の臓器を納めた四つの容器が入っている。 来世は「プレゼンス」の状態を象徴し、ミイラ化した体はこの状態に到達する精神的な努力の身体を象徴している。大乗仏教に於いて、この精神的な努力の身体は「報身」と呼ばれている。菩薩または執事はこの「報身」で、彼の誓いを完了させ仏陀になる。

精神的身体は美徳の総和である。 -- パイシアス・ベリヂコブスキ『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
あなたが忘れてしまったことを思い出せるように、あなたの体内にあなたの心を入れた。 

-- エジプトのコフィンテキスト

このエジプトの引用に於いて、肉体はすでに心を持っているので、体というのは肉体を意味しない。 この一節は、「内的な意味」の想起を長く継続させるときに、感情的になることを示す。 心臓が羽根よりも軽い場合、エジプト人は死後の世界、つまり「神聖なるプレゼンスの状態」に達することができる。 これは「現在に存在したい」という願望以外の他のすべての欲望を捨て去ることによって、「プレゼンスの状態」に達することができるということを意味する。

正方形の中にある四つのツタンカーメンの頭

別の言い方をすると、この四つは神として一つで、一つは四つである。 しかし、我々は神の単純さを把握することはできない。 我々は彼が一つであると理解するように努めているが、彼は 四面性で、我々に表示される。 -- クレルヴォーのバーナード (12世紀フランスの修道院長)

この不滅の四重の呼吸は、眉間の奥、精神の元の中に隠されている。-- 「趙避塵 」(20世紀、道教の老師)

来世の人生はエジプトの生活の自然な続きであった。 ファラオはファラオで、神々も同じく神々であり、労働者は現世と同じ仕事をしていた。彼らは食べて、愛して、結婚して、崇拝した。その生活は地球上の人生とほとんど同じであったが、ただ困ることはなく、みなは本当に幸せであった。 これは「神聖なるプレゼンス」の状態の非常に良い説明である。


雛祭り

雛祭りは3月3日に行われ、「女の子の日」を祝う。この日に家族は娘の幸せと繁栄、健康で美しく成長することを祈る。

雛飾り

雛祭りの由来は、身体の穢れ、罪と不幸を人形に移し替えるという古代中国の習慣である。 罪というのは「現在に存在する努力」から自分を引き離す思考に耳を傾けることを示す。

道上の魂にとって祝福も罪も一つだけである: 神を意識するのが祝福で、神を意識しないのが罪である。
-- マダニ(インドのスーフィー)

わらや紙のひな人形は、小船の上に置かれ放流され、海まで穢れや悪魔を乗せていく。流し雛と呼ばれた古俗はまだ日本のいくつかの場所で行われている。

女の子が、藁を円状に編んだ「さん俵」に乗せた紙雛を流す

川に流された、雛を乗せた小舟












船はあなたの心である。それを守りなさい。
-- マカリアス・ザ・グレート『フィロカリア』(ギリシア正教の修道僧による文献)

中国の禅僧・寒山の絵
(東京国立博物館)




雛祭りは塵がある心を浄化することを象徴している。塵は心を汚染する思考と感情を表わす。

心はきれいな鏡のようなものである。常にそれを磨くように努力しなければ
なりません、塵を蓄積させてはいけません。-- 慧念(7世紀の第六禅宗の開祖)
心底の地は常に掃き俗なる感情の塵も取り除き輝く毘盧(仏陀)を陥穽に落としてはならぬ。 -- 西遊記
心という住居を掃除しなさい。 -- シャビスタリ

この画像では、中国禅僧寒山は心を一掃するためのほうきを持っている。





雛飾りの三侍

熊手やほうきを持っている雛飾りの武士は同じ象徴を表はす。

熊手で尾根を切り開く猪八戒、陈惠冠による

中国の小説西遊記の第64章で、三蔵法師と弟子たちは荊棘(いばら)や蔓の生える尾根に達する。

三蔵法師は馬の手綱を握りしめた。 尾根に荊棘や蔓が生えているのを見た。道の跡はあるが、荊棘が通りを塞いでいる。「弟子たちよ、どうやってこの道を通り過ぎましょうか?」 彼は尋ねた。-- 西遊記

これは、「プレゼンス」の状態への道は、想像と呼ばれる自分の頭にぐるぐる回るランダムな思考や感情で妨げてられているということを象徴している。

心から快感の対象へ向かって、どこでも流動している三十六の流れは、その不幸な人を押し流す。情念の蔓はどこにでも育つ。自分の心に一つでも見つけたら、それを知恵を使って根絶しなさい。-- 仏陀

雛祭りのときに家族が雛飾りを配置し、娘の幸福と繁栄を祈る。娘が無事に、健康で育ち、良い夫を見つけることを望んでいる。その「内的な意味」は、「プレゼンスの状態」を創るために娘に象徴される心が夫に象徴される良い執事または知性を見つけることである。男雛(天皇)と女雛(皇后)も知性と心を表わす。

心と知性が統一するというのは、心の精神的な感情や知性の精神的な思考が統一するという意味である。
-- ビショップ・イグナチ『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

天皇と皇后と三人官女

流される雛人形を乗せた「さん俵」



流し雛祭りのときに女の子は男女1対の紙雛を、藁を円状に編んだ「さん俵」に乗せ、町内を流れる川に流す。このような紙雛も執事(知性)と心を象徴している。


親に似ぬ子は鬼子 -- 日本のことわざ



このことわざでは、両親は心と知性を象徴している。心と知性の子供は、例えば「存在」(Be)という「現在に存在する」ことを喚起する言葉などである。ただし、子供が親に似ていなかったら、つまり「現在に存在する」ことを喚起していなくて、それに無関係な思考であれば、それは悪魔の子で、「低次の自己」の子である。

実際に、デビルというのは、人間の「低次の自己」と情念である。
-- フジウィーリ (11世紀のペルシャのスーフィーの学者)
子供達は父親のようである必要がある。私たちは神によって、神になるように作られる。
-- シナイのグレゴリー『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

この引用では「父親」は「高次の自己」または「父なる神」を示す。「高次の自己」が「現在に存在したい」と、心に「プレゼンス」の喚起を送る。この喚起は子供として例えられる。雛人形は「生命の呼吸」または「プレゼンス」がある呼吸を象徴している。 「プレゼンス」が長く継続する状態に達し、「一万の<私>」から分離されていると、それらを掃除する必要はなくなる。自分は阿弥陀仏の浄土に達し、「複数の<私>」を単に観察することができる。なぜならば<私>という感覚はもう「複数の<私>」に執着していないからである。しかし、想起を忘れると自分はまた「複数の<私>」になるので、再び掃除を始める必要がある。

仏陀の弟子が持っている花瓶から現われる
真珠の宮殿の日本画




楞嚴経にはこう記されている: 思考を集束させることによって、人は飛翔することができ、天国に生まれる。天国は広い青空ではなくて、身体から生まれた天の宮殿である。これを長いあいだ継続させると自然に、身体に加えて、さらに別の精神的な身体を開発する。
『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)

天国は広い青空ではなくて、神輿に象徴される、身体から生まれた天の宮殿である。実際には、天国には形状がなくて、経験者のみに知られている「神聖なるプレゼンスの状態」である。



火祭り

心の中に神の火を感じるように求めるあなた、自分の中に存在する天国を知りたくて、それを受け取りたいあなた、来なさい、 私はあなたに永遠の天の生命の科学を与えるだろう。
-- 孤独者ニケフォラス『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

福山のお手火祭り


道教師の錬金術古典と著作の中で話された焼成工程は、実践的で精神的なワーク の順序の隠喩である。
-- 劉一明(18、19世紀、道教の老師)

火祭りは、日本のさまざまな地域で行なわれる。火はプレゼンスの状態で起こる「高次の自己」の意識の象徴である。 この状態のもう一つの象徴である太陽は、意識の光を与え、終わらないかのように見える火である。

火による6つの浄化の段階は......順序がり、混同してはならない。そうすることでか金丹を作り出すことができない。
-- 「趙避塵 」(20世紀、道教の老師)

火はすべての純粋ではない物を燃やして、意識の光に変容する。この光は「高次の自己」である。




長野県・野沢の道祖神祭り

イエスは述べた、「私は世界に火を投げかけた。ご覧なさい、私はそれを赤々と燃えるまでに守っていた」。-- トマスによる福音書
この世界の人生は自分の「低次の自己」、自分の情念と自然な性向であり......それがこの世界の意味である。-- アル・ジラーニ(12世紀、スーフィーのマスター)


燃料がなければ、火が燃えることはできない。

内面で支配するものは、火がそこに入って来るものを捕らえて燃え上がるのと同じように、対抗するものから自分の材料を創る。火が強いと、材料を消費し、それによって高く上昇する。
-- マルクス・アウレリウス(2世紀のローマ皇帝)

「執事」とも呼ばれる「支配の原理」は、「高次の自己」が目覚めている意識の状態を創造するために、燃料としてプレゼンスに対立する「低次の自己」を使用している。

ワックスが火の中で溶けるように、想像は純粋な祈りの作用の下で分散し消えてしまう。
-- モンクカリスツス『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)

想像というのは自分の心の中に巡る多数の思考を示す。それらに耳を傾けると、自分はそれらとなり、「高次の自己」が消えて、睡眠の状態に戻る。 それらに注意を払わず、現在の瞬間に意識を保持し、つまり「純粋な祈り」を行うと、「高次の自己」または「内なる神」を目覚めさせることができる。 「低次の自己」は、自分がこの意識を保つことができる限り、受動的あるいは「死ぬ」。この意識は「低次の自己」を消費する火である。

福山のお手火祭り

本当の恋人は、自分自身を消費することでしか光を見つけない。まるでろうそくのように自分自身が自分の燃料なのだ。
-- ファリドゥディン・アター(12世紀スーフィーの詩人
真実は松明(たいまつ)であり、しかしものすごく巨大なものである。だから、我々は皆、瞬きをしながら、傷つくことを
恐れながら、それを無視する。-- ゲーテ(18世紀ドイツの詩人、作家)
魂が浄化されていると、その中に自己のことは何もなくて、完全に神の存在に留まる。その存在は神にあり、神はこの浄化されている魂を自分へ導いた。燃えることができるものは何も残っておらず、もっと苦しむことはない。-- ジェノヴァのキャサリン(15世紀のイタリア聖人とミスティック)

燃えることのできるものがなければ、燃料がないために、火が消える。これは火の象徴を別の観点で見る方法で、それは「涅槃」の意味である。「涅槃」は絶滅であり、「複数の<私>」または情念の火を吹き消し、つまり「低次の自己」を吹き消す。否定的感情も火に象徴されるが、その火はプレゼンスの火ではなく、地獄の火である。地獄は睡眠の状態を示し、楽園または天国は神聖なるプレゼンスの状態を示す。

天国は高潔な生活で、同じように地獄の苦しみは情熱的な習慣である。
-- シナイのグレゴリ『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
楽園への適切な行動でしか、地獄の火から遠ざかることができません。
-- イブン・アラビー 「イブン・アル・アラビー」(12世紀、イスラム神秘主義者)
心は独自の場所であり、それ自体で地獄から天国、そして天国から地獄を作ることができる。
-- ミルトン(17世紀の英国の詩人)
悪事に心を留め置くことによって、地獄が発生する。善行に心を留め置くことによって、楽園が現われる。
-- 慧能(7世紀の第六禅宗の開祖)

English 日本語

「第四の道と秘教的な伝統」⎟ 「西遊記」⎟ 「神聖なるプレゼンスの技術」


英語: The Secret of the Golden Flower ⎟ The Taoist I Ching ⎟ Being Present First


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