能劇

演能

能劇は神道に強い根源を持っており、仏教の伝統にも影響を受けた。能を今日存在するように完成させたのは世阿弥(1363〜1443)の功績である。世阿弥が使用した美学の重要な規則は「花」という概念である。「花」というのは演能が好評を得た時に役者と観客の間で感じられる神秘的な高揚感の一体化を達成することである。

能の最大の秘訣、能を理解するための最も重要な要素 は「花」の意味を知ることである 。-- 世阿弥

この神秘的な高揚感の一体化の経験は、役者の演技の結果で現われる、観客や役者の通常の意識を超越した「神聖なるプレゼンス」の状態である。 花はこの状態を象徴するために使用される。

黄金の華とは光である。黄金の華は象徴として使用される。これは真のエネルギーで生命の仙薬のことである。 -- 『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)
見えないけれど、その香りを隠せないこの驚くべき花をご覧なさい。
-- バウハウディン(12世紀のスーフィー学者や詩人)
外的な変化の力に影響されない貞淑な心の中に、地球上で楽園の空気を呼吸する不死の花が咲く。
-- ミケランジェロ(16世紀のイタリアの彫刻家、画家、建築家、詩人)

役者と観客の両方が「高次の自己」が存在している超越した意識の状態を経験するのは、稀なことである。 これはあらゆる素晴らしいパフォーマンスで発生する可能性があるが、通常、偶然に発生する。 パフォーマンスの経験がいかに奥が深いかを分かっているとしても、パフォーマーは通常再びこの状態をもたらすことができないため、彼のすべての人生が再びそれを経験するために専念される。 この経験のために多くのミュージシャンや俳優は無意識のうちに演ずることに引き付けられるのである。 というのは、彼らの中の非常に小さな敏感な部分が最高の経験のために努力するが、「低次の自己」の残りの部分は他人の注目を引きつける盲目的な崇拝に興味がある。 世阿弥にとって、能劇の中心はこの経験をもたらすことである。「能」という言葉の意味は「花」をもたらす能力である。

蓮の上に座って智拳印を結ぶ大日如来
12世紀(東京国立博物館)  
花」を理解するためにまず自然の中に花が咲いていることを観察する必要がある。それからすべてのものの中に花の原則を例えとして理解することである。 -- 世阿弥(15世紀の日本の俳優や劇作家)

花の成長は「現在に存在したい」という願望を象徴している種子で始まる。 種子から地中に成長する根はこの願望が自分の存在を浸透させることを象徴する。 花を支える花の茎は「神聖なるプレゼンス」を確立する道具や技術を表わす。

純粋な香しい蓮は、畑の清浄な肥えた土でなく沼沢の泥から生えるように、仏陀の純粋な悟りは煩悩の泥から開かれる。 
-- 
仏陀
連続した祈りを通して、心は良い土壌と同じように、神聖な花を生み出し始める。 -- イリアス・プレスバイター『フィロカリア』(ギリシア正教の修道僧による文献)

能舞台は神楽と呼ばれる神道の神事においての歌舞に由来する。能舞台は「神聖なるプレゼンス」、そしてそれを達成する方法を象徴している。

能舞台

神楽舞台













能舞台の背面にある、鏡板と呼ばれる木製の壁に神が宿る。この壁に描かれた老松は神の住居を象徴する。
舞台は現在の世界、
舞台裏は死者の世界を表わしている。 -- 磯崎新 (20世紀の日本の建築家)

正方形の舞台は「神聖なるプレゼンス」を象徴し、松の木も「内なる神」を表す。

私は命の木と一体になっている。 私の栄光は山の頂上のように上昇する。 私は自己を実現している。
-- ウパニシャッド(ヒンドゥー教のテキスト)

神籬

神籬















能舞台もおそらく神籬(ひもろぎ)によって影響された。古代に由来する神籬は、正方形で、一時的に建立された神聖な空間または祭壇を示す。正方形の面積は、四隅にある緑色の竹や榊の枝で区分けされる。その枝の間に注連縄が張られている。神籬の中央に神および「高次の自己」の物理的な「プレゼンス」を代表する榊の大枝が立てられる。

望みが得られない状態が長引くと、心が病気になる。 願望があるときは、命の木を得たようだ。
-- 聖書、箴言13章12話

その瞬間に存在しない何かを望んでいるときに、私たちは「現在に存在すること」ができなくて、心理的な観点から見ると、病気である。「現在に存在する」願望がある、または「プレゼンス」が長く継続する状態に達した時、私たちは「生命の木」である。

能舞台の図
鏡の間はちょうど舞台の入り口に配置されている。 -- 磯崎新(20世紀の日本の建築家)

舞台に出る準備をする能楽師

装束を着け終わって出を待つ役者は、鏡の間で気持ちを集中し舞台に備えて、面を着ける。鏡は、まだ「プレゼンス」の状態にないが「現在に存在したい」という願望を持つ心を象徴している。 心が完全に純粋な状態である場合、鏡は神のイメージまたは「プレゼンス」が長く継続する状態を映すことができる。 鏡を眺める役者は、「現在に存在したい」という願望に集中し、その願望を強めることを象徴している。

スーフィーであることとは心の鏡をこの世界からそらし、神のほうへ向けることである。-- タシカンヂ(15世紀のスーフィー)
心を有する者は六面鏡になる。神は彼を通して六方向を見る。 

-- ルーミー(13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人)

役者は観客が彼を見ることと同様に、演じるつもりの主役を客観的に見ることができる状態に到達しようとする。これは「高次の自己」が「現在に存在する」場のみに発生する。鏡が「現在に存在したい」という願望の象徴であるにもかかわらず、鏡を眺めることはこの状態に到達するのに助けになる。

自由というのは、賞賛や非難なしに、興味を抱いた見知らぬ人を見るように公平に自分を見ることである。
-- ロドニー・コリン(20世紀第四の道の神秘思想家)

能面

「パーソナリティ」という英語の言葉は、ラテン語の「ペルソナ」から由来し、マスクを意味する。皆は一日中、多くのマスクを身に着けている。一つのマスクは仕事のため(二つの場合もあり、一つは上司のため、一つは部下のためである)、一つは友人のため、一つは配偶者のため、一つは子供のためである。自分が怒っているときのマスクや気分が良いときのマスクなどもある。

私は以前は、人の顔の種類がどんなにたくさんあるかに気づいていなかった。人はたくさんいるけれど、顔のほうはもっとある。なぜならば、それぞれの人がいくつかの顔をもっているからである。
-- ライナー・マリア・リルケ(
20世紀のドイツの詩人)『マルテの手記文中』
「最愛」の顔を見たい時には自分の心を振り向け、 そしてそれを鏡にしなさい!-- カシガリ(15世紀ナクシュバンディースーフィー)

神や最愛の顔は「プレゼンス」の状態を指す。ここに示された能面は、「現在に存在したい」という願望を象徴している。これを着けるのは、他のすべての顔、他のすべての人格、他のすべての欲望や他の「複数の<私>」を手放すことを象徴している。


正方形のフェイスマスク
(メキシコシティー、国立人類学博物館)

正方形の第三の目がある教師
(チベット、14〜15世紀)

顔はそれ自体が正方形を形成している。
-- レオナルド・ダ・ヴィンチ
一尺方形の家の一寸方形の場所で生命を統制することができる。一尺方形の家は顔である。顔の中の一寸方形の場所、それは天の心以外の何物であるか?-- 『太乙金華宗旨』(黄金の華の秘密、道教の瞑想指南書)


時に主は自分の内に不在だが、 別の時に彼は自分の内に存在する。 鏡を通したように、ぼんやりした瞑想に耽っているときは、彼は不在である。 主と向かい合って瞑想に耽っているとき、彼は自分の中に存在している。 -- マクシムス・コンフェッソル『フィロカリア』 (ギリシア正教の修道僧による文献)
ラーの顔のベールが取られている、六日祭りの主である、おお、アメン・ラー。
-- 神聖のカルトの崇拝の儀式
(エジプトのテキスト)

舞台の橋懸りの入り口の五色の幕

エジプトの太陽神ラー、つまり「神聖なるプレゼンス」の顔のベールが取り外されている。役者が面を着けた後、橋懸りと「鏡の間」の間の五色の幕が上がり、橋懸りの上に進む。 幕は「神聖なるプレゼンス」と人間が毎日過ごしている 睡眠の状態 を分離するベールを象徴している。

想起の修行中であったとしても、最初は自分はベールの背後にいる。その後に、ベールが剥がされる。つまりプレゼンスのことである。
-- クシャリ(11世紀のペルシャスーフィーマスター)

幕の五色、白・赤・黄・紫・緑は、五大の土・水・火・風・空気を象徴している。この幕はこの世界と浄土を引き離す。




蓮の上に座っている五大如来、チベット

五大如来とそのいくつかの側面の図










密教の象徴的な五行は、五つの種子真言、五大如来である。-- 空海(9世紀の日本の真言宗の開祖)

五大、五種子真言と五大如来は全部、阿弥陀の浄土または「神聖なるプレゼンス」の状態を達成するための、六音節のマントラの最初の五音節を示している。

意識は土・水・火・風・空気と結合し、一つの要素として、それらすべてに浸透する。 
これらは一緒に六大行の普遍的な身体を構成している。
-- 山崎 泰広『真言宗、日本の密教』

頭の上に「カー」があるファラオ(カイロ、エジプト博物館)

役者は非常にゆっくりと橋懸りに進む。 能は「歩く芸術」として定義されている。 能の歩き方はとても重要であり、役者に呈することができる最高の賛辞はその歩き方が上手であるということである。

ダルマの如く歩きなさい。正義に歩きなさい。 
-- 仏陀

能楽師のすり足
主は我々の内に彼が存在しているという素晴らしい経験に対する大きな憧れを目覚めさせた。しかしそれは毎日の成長によって取得できるものである。我々は歩くことによって成長し、前向きな努力によって歩いて、最後にそれを
達成することができる。 -- 聖アウグスティヌス(5世紀のキリスト教聖人)

歩くということも「現在に存在する」ことの一つの象徴である。


舞台裏と舞台を接続する橋懸りは今この時の世界(舞台)と死者の世界(舞台裏)の間の空間を象徴している。橋のような通路は精神が地球に降りることを表わす。 -- 磯崎新 (20世紀の日本の建築家)

橋懸りは「神聖なるプレゼンス」を象徴する舞台と、人間がその人生を過ごす睡眠の状態を表わす死者の世界を接続する。橋懸りは「神聖なるプレゼンス」を達成する道具である。橋懸りの前の徐々に大きくなる三本の松の木は「神聖なるプレゼンス」が心に徐々に降りることを象徴する。舞台の背面にある大きな松は、長く継続する「プレゼンス」の状態を象徴している。

徐々に大きくなる三本の松の木


想起の第一段階は舌の想起であり、次は心の想起で、それから想起を唱える者の中に「神聖なるプレゼンス」が現われる。そのために想起を練習する必要がなくなる。 -- アル・ガザーリ11世紀ペルシャの神秘的なスーフィー)






天と地の間の橋懸りに立っている
伊邪那岐と伊邪那美
(明治時代、小林永濯の画)

橋懸り

橋懸りは古事記に書いてある伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)が立っている天浮橋(あめのうきはし)と同じ象徴である。

伊邪那岐命と伊邪那美命は天から下りて、天と地の間の天浮橋に立っており、天沼矛( あめのぬぼこ)で海原をかき混ぜる。-- 古事記

天国は「神聖なるプレゼンス」で、地球または肥えた土は「プレゼンス」に憧れる心である。そして地獄は「プレゼンス」に興味がない「低次の自己」の残りの部分を象徴している。

地獄というのは、独自の勢いに任せて行動するエネルギーである。天国は、より高い者に従うエネルギーである。-- ウィリアム・ブレイク(18世紀の 英国人の詩人、画家)

鏡の間は地球を表わし、能舞台は天国を象徴している。橋懸りは「プレゼンス」の状態を長く継続させる手段を表わす。


精神を静め、神に戻ることによって神聖なる行為が実行できるように、天浮橋に立つ必要がある。
-- 植芝盛平(合気道の創始者)
善行を行う者の中の優秀な者は、あらゆる状況に神を想起する者である。
-- イブン・アタ・アラ(12世紀のエジプトのスーフィー)

神聖な行いや善行は、「プレゼンスの状態」に自分を連れ戻す行為である。この状態に戻るには、天浮橋の上に立つ必要がある。 橋懸りは、鏡の間での心の喚起に続く「神聖なるプレゼンス」に到達するための、長く継続する努力を象徴している。この努力を通して精神、つまり長く継続する「プレゼンス」の状態は、天から降りてくる。

ケツァルコアトルは言った。「あなた来て、四方に住んでいるあなた、無限の存在、輝いている精神、今すぐ来て!」 
 これは彼が自分の神性を起動する方法である。
-- ケツァルコアトル(メソアメリカの神) 『ケツァルコアトルの生涯と教え』
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英語: The Secret of the Golden Flower ⎟ The Taoist I Ching ⎟ Being Present First


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